CHIGUSA History

撮影:森日出夫
撮影:森日出夫

おやじの想い出

柴田浩一(ちぐさ賞委員/横浜ジャズプロムナード・プロデューサー)

 「音楽の好きな人間に悪い人間はいない」オヤジさん吉田衛が、私の結婚式で主賓としていった言葉だ。
 へんくつ親父あるいは頑固親父の代名詞のように思われているが、実はそうではない。店に足しげく通う客は自分の子供のように接するし、仕事がないからと相談に来るミュージシャンには紹介をする。組合や同業の店のためにはリーダーとして東奔西走をするといった、他人のためにつくす人情味あふれる人だった。今どきこんな人はいない。

 「ちぐさ」に最初に入ったのが高校生の時だから、オヤジさんによって社会勉強が出来たと感謝している。

 今、思い出すオヤジさんの話を書いておこう。
 ある時、桜木町の駅を降りたら雨がふっていた。近くの質流れ品の店で立派な新品の傘を買った。オヤジさんに自慢げに話したら「そういう物を買ってはいけない。傘に怨念がこもっているから」

 「コルトレーンがいってたよ。なんで日本人はジャズというのかってね。音楽でいいんだよ」コルトレーンの記者会見に立ち会った後。

 「音楽は音を楽しむと書く。楽しまなきゃ音楽じゃないね」これは常日ごろからいっていた。

 日大ジャズ研のシンポジウムで「ジャズは聴くということが最も大事であり、ジャズと落語の共通点は“間”です」

 「柴田、あの客は150円にしとけ」当時300円の時だ。おかしいなと思って訊くと「あれは中税(横浜中税務署)の人間だ」 ホントかいな?
 こんなこともあった。開店前の店の掃除をしていると「オイ、オイどっちに掃いてんだよ。入口から掃いて奥で塵取る。これが客商売のやり方だ」


撮影:森日出夫
撮影:森日出夫

おやじの想い出

藤澤智晴(ちぐさ賞委員/一般社団法人ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館代表理事)

水も出さないケチな店だって!?
冗談じゃない、水が欲しけりゃ、欲しいって言やいいんだよ 。大体よ、出したって飲まない奴が居るんだよ。無駄だろ、そんなの。水だって勿体無いし、グラスも洗わなきゃいけない。俺はね、影でぐずぐず言う奴ァは嫌いなんだ。何でもはっきり言って欲しいね。ついでに言っとくけどね、能書きたれる奴もやだね。どっかで聞いた風なこと並べ立て、小理屈こねくり回すような。いいものはいい、駄目なものは駄目。単純なんだよ、世の中は。肩書きや看板なんてものは信用しちゃいけないよ。人まねも駄目。何かこの、グッと来るものが無ければ、やってけないよ。音楽だけの事を言ってるんじゃない。何だってそうゆうもんだよ。ジャズを勉強したいって? あんたね、ジャズなんて勉強するもんじゃないよ。日本人なら、いい話、落語を聞くんだね。聞いて、酸いも甘いも噛み分けられるようになれば、ジャズも分かるってとこかね… とおやじは言っておりました。


吉田衛の略年譜(横浜ジャズ物語「ちぐさ」の50年から)

1913年 4月8日、横浜市中区翁町2丁目で生まれる

1919年 横浜市立寿尋常高等小学校入学

1927年 山下町の輸出入商Z・吉田商会にボーイ

    (給仕)として勤め、傍ら横浜専修商業学校

     に通う

1928年 日本大通のスナック「マスコット」でジャ

     ズと出会う

1933年 野毛町1-23に純喫茶「ちぐさ」を居抜きの

     まま650円で買い、店名はそのままで、

    「スヰング&ホット・ジャズ喫茶ちぐさ」とした

     このときレコードは1000枚

1941年 レコードを1枚20銭で強制供出することになったが6500枚のうち500枚

     だけを供出し残りは天井裏に隠す

1942年 交付の東部第63部隊に応召され、ただちに中支に派遣される

1945年 5月の横浜大空襲で「ちぐさ」焼失

1946年 6月に復員 翌年暮れ「ちぐさ」を再開

1948年 全国甘味喫茶店協同組合神奈川県支部長(67年まで)

1950年 神奈川新聞社・共同募金会共催のフライヤージム・ジャズ・コンサート

     を企画

1956年 「ワルツ」のジャムセッションを企画・演出

1958年 落語家三遊亭円輔を知り、若手落語家の後援団体として「精進会」を上

     野・本牧亭で組織しその役員となる

1967年 神奈川県喫茶環境衛生同業組合常務理事(75年まで)

1969年 5月「ジャズ批評」誌座談会 メンバーは松本伸(テナー)、渡辺晋

     (ベース)12月日本大学桜門ジャズ研究会主催シンポジウム「日本のジ

     ャズを考える」メンバーは岩浪洋三、相倉久人、平岡正明 コーディネ

     ーター川又志朗(フェリス女学院大学教授)

1970年 1月「ジャズ批評」誌座談会「日本ジャズが入ってきたころ」メンバー

     は松本伸(テナー)、山口豊三郎(ドラムス) 10月環境衛生向上の功

     労により神奈川県知事表彰

1971年 野毛町周辺の有志による「江戸文化研究会」入会し馬生円蔵などを聞く

     環境衛生業組合相談員 神奈川県環境連絡協議会評議員

1972年 6月「ジャズ批評」誌座談会「ジャズの大衆化・ジャズ喫茶のあゆみ」

     メンバーは野口清、松坂比呂 7月「ザブリーム」誌で松坂比呂司会に

     よる座談会「自慢の一枚」

     11月環境衛生同業組合創立5周年で同組合神奈川県理事長から表彰

1973年 調理師育成の功労で神奈川県知事から感謝状

1974年 「WASEDA JAZZ」誌第2号に「誰も知らない日本ジャズ史」を執筆・掲

     載翌年第3号に続編を発表 

     6月環境衛生向上の功労で全国喫茶連合会長表彰

1975年 神奈川県喫茶環境衛生同業組合副理事長(78年まで)

     12月環境衛生向上の功労で神奈川県環境衛生中央会長表彰

1976年 「JAZZ」誌の座談会「新春放談・守安祥太郎の幻を明す」メンバーは南

     隆、安井陽、余語瀞 横浜市食品衛生指導員(80年まで)

1977年 環境衛生向上の功労で全国環境衛生同業組合中央会長から表彰
1978年 組合創立10周年で全国喫茶業環境衛生同業組合連合会長から表彰 横浜

     市食品衛生協会会長表彰 神奈川県調理師会長表彰 神奈川県喫茶業環

     境衛生同業組合理事長(80年まで)

     神奈川県調理師会副会長ならびに神奈川県環境衛生中央会理事

1980年 食品衛生の功績で厚生大臣表彰

 

横浜郷土研究会会員・秋山佳史 編

1985年発行 横浜ジャズ物語「ちぐさ」の50年


1986年 「横浜文化賞」受賞

1994年 81歳で永眠